紙は「こころ」にストレートに響く
本を好きな理由。
のんびり止まって思考する時間があるのがいい。紙そのものも好き。おのずと思考してしまう感じがいい。
ネットだと、自分が思考できたかどうかもそこそこに、次の画像や情報が流れてくるし。0円だから気合も入れずに不真面目に、いくらでも眺めてしまいそうになるし。
しかも、画像の場合、わぁ~好きだなぁ、いいな~、私もそう思う、あれもいい、これもそう、と、さも自分で見つけた情報、自分の手柄のような気になるけれど、自分の能力はほぼ使っていなかったことに気づく。あ。すみません自分。
あげく「そのアイデアっ、自分も考えてたぜ~♪」かのように、一瞬、錯覚を起こしてしまう。ちゃうちゃう。ん。いや、もしかしたら、ほんとに考えたかも知れない。だけど、目にしたら、すでに他人(ひと)のアイデアだったか~的に降参しちゃう。敗北感 笑。見なかったら、もっとすごいものに取り掛かってたかもよ。猪突猛進猪突猛進って。
それらの行為は、自分の編物言語が確立してない感じ。粘土の人形がふにゃ~と倒れる感じ。
私は自分の内面に挑戦するために、自分で生み出したくて編んでいるんじゃないのか。生きているんじゃないのか。受け身でいいのかーーー。笑 (ひとりごと。いや寝言。そっとしといて)
本は攻め。閉じ込められた時間の中に、今の自分に必要なものを取りにいく。疑問に思ったら止まって思考する。行動や努力なしには読めないところに意味がある。画集であっても読んでいるということ。そう。読む手間が鍵なのでは。
「読む×脳」で化学反応が起きて湧き出てくるものがある。ような気がする。その沸々感が、いいのよね。ふつふつかん。。。これは、誰が何と言おうと自分だけのもの。
次々に流れてくる画像や情報にいいな~と思って影響を受けるのは、テレビに汚染されてきた仕組みと似ていると、最近気づいた。
テレビを見ないのが主流になって来たと思うけれど、ネットもね、画像情報満載だし楽だけど、油断しちゃだめよね。「SNSの洒落た画像」や「影響力のある人の言葉(これは言葉であっても眺めている感じ)」を集めることに変わっただけ。
努力は必要なくて、自分も同じ立ち位置、出来る人の気になってくる。いかん、いかん。とりあえずお気に入り。とりあえずいいね。とりあえずフォロー。あげく、似たような言葉遣い。似たようなノリ。ひぇ~。眺めてただけじゃん。「考える」を放棄してた。
そうじゃなくって、本!読み倒す。読む。こころを使って見倒す。考える考える。どの言語を自分は選択し、どう思考するのか。
ダヴィンチは濃かったもの。ピカソは濃かったものね。なのに。コピペコピペしながら、世界中がネットで掻き混ぜられてみんなの能力が「平均化」されて、考えなくてもそれっぽく出来ちゃうから、考える能力が薄まっちまったのさ。
最初の頃はちょうど良い加減だったけど。いつの頃からか、洪水氾濫警報。
大丈夫、間に合う。ピカソの時代には戻れないけれど、それでもあがいて、自分の能力は自分でいっぱいいっぱい愛して愛して大切にして大切にして考えて思考して感じて磨いて高めてあげないといけない。
私達が手間をかけず、タダで眺め、手に入れた気になっているものは『こなさない限り』0円分の価値もないのかもしれない。
と、たりるんに言っておきたい!